徳本修一が野菜をつくるまでの話(4)
TREE&NORF代表の徳本修一のインタビュー記事を「なぜ農業を始めたのか?」というテーマのもと、10回に渡って連載するこの企画。本日は第四回です。
TREE&NORF代表 徳本修一
- 消防士になって、消防士を辞めるまで
- 東京での暮らし(前編・芸能界に入るまで)
- 東京での暮らし(中編・芸能界に入ってから)
- 東京での暮らし(後編・結婚して子どもができた)
- 東京から鳥取に引っ越し、わったい菜を創業
- わったい菜で奮闘した5年間(前編)
- わったい菜で奮闘した5年間(中編)
- わったい菜で奮闘した5年間(後編)
- TREE&NORFを創業、本格的に農業の道へ
- BLOFに出会って。そして徳本、大いに語る
前回の続き、事務所が少しずつ徳本たちの実力を認めてくれるようになって、営業してくれたり、ちゃんとしたプロデューサーを付けてくれたと。そしてそのプロデューサーが現在の君の奥さんだと。
営業をかけたり、プロデューサーをつけるということは、コストがかかるということですよね。そうなると事務所も僕たちにプロのミュージシャンとして色々なことを要求するようになりました。
例えば?
作曲の量や質、歌唱力、演奏の技術などです。でも、作品をつくればダメ出し、歌って演奏すればダメ出し。プロとしての最低限のレベルに到底及んでいないことを徹底的に指摘されて、且つ実際のプロのパフォーマンスを目の当たりにしてハッキリ分かるわけです。「俺たち、全然ダメだな」って。
好きでやってるのとは違うわけだよね。
コンピュータのない時代、楽器一つで生きてきた本物のプロミュージシャンの演奏力というのは、言葉にできない凄まじさがあるんですよ。でもそれを「すンご〜い♥」とか言ってられないわけです。自分たちもその領域に到達するために、この先どれだけ努力して試練を越えてかなきゃいけないのかと想像すると、ちょっと呆然とするくらい遠い感じがしたんですよ。
僕も似たような経験あるけど、そういう局面で「よし!」となる人と「うわぁ…⤵︎」となる人の2タイプに分かれるよね。
そうですね。僕らもハッキリ分かれて、後者だった相方が辞めることになりました。
おお。。。
僕はひとりになりました。演奏は相方のギターのみだったんで、解散以降はカラオケを持って僕ひとりで駅前で歌っていました。
切ない。
ところが、意外とそうでもなかったんですよ。一人になったことや、プロの凄さを体感したことで、自分が集中すべきことが分かりました。作詞や作曲、演奏はもう一切しない、しっかり歌うことを極めようと。
集中と選択をしたと。
すると、すぐに結果が出始めたんですよね。パフォーマンスの質が高まってきて、駅前やライブでもさらに集客できるようになってきた。それで、事務所がレコーディングに一流ミュージシャンを揃えてくれるようになりました。
解散という危機を、良い方向に転換できたんだね。
一流のミュージシャンたちと一緒に演奏したり、食事などで一緒に時間を過ごすようになると、彼らの演奏力もさることながら、音楽から離れた時のブッ飛びっぷりの凄まじさに驚かされました。
ほう。例えば?
ここでは言えないようなことですね(汗)。一般的な価値観では計り知れない、社会通念を超越した世界で生きてるというか。それだけだとただの破綻した人たちなんですけど、ミュージシャンとしての力量は物凄い。彼らが演奏を始めた途端、空気が一変する。要は振れ幅がすごいんですよ。
何かに秀でた人たちって、そういう人が多いと聞くね。
それで僕も勘違いしてしまったんですよ。
勘違い?
自分もあんなふうにブッ飛んだ人間にならなければ一流にはなれない。だから、もっともっと欲望のままに生きよう。そうすれば自分も一流になれるはずだと。
うーん。。。
欲望に溺れることで一流になれるわけではないんですが、当時の僕は、周囲にいたミュージシャンと同じように振る舞えば、自分も彼らと同じ世界に行けると勘違いしてしまったんですよ。
駅前で「バカになり切る」ことで結果を得たこともあって、そこでも思わず振り切っちゃったわけだね。
結果として、周囲にごっつい迷惑をかけることになりました。事務所の社長も「もう無理だ。辞めろ」と。
え? 即クビ?
クビです。
よほどブッ飛んだことしたんだなあ。
愕然としたし、納得できなかったわけですよ。なんで他のミュージシャンは許されてるのに、俺は許されないんだ!と。
そりゃ一流とデビュー前ではね。。。で、具体的にどんなことをしたのか? は、当然ここでは言えないわけよね。
はい(汗)。夢の入り口が目の前に開いていたような気がしたのに、そこに向かって全力疾走していたつもりだったのに、それがバタンと急に閉ざされて真っ暗になってしまったような。ガッカリしました。
単なる自業自得の話に聞こえるけどね。
ほぼ同時期に、僕のプロデューサーが「あなたの子どもを妊娠したよ」と。
わお。。。
話には出てこなかったんですけど、実はプロデューサーと交際してたんですよね。
そうみたいね。
事務所もクビ、芸能界から追放で無職。で、子どもができた。あまりに状況が変わってしまったので、何をどうしたらいいのか分からなくなって、最初はちょっとパニックになりました。
うん。
まあでもとにかく生活のためのお金を稼がないといけません。それで昼間は建造物の解体工事屋、夜は六本木でバーテンの仕事を始めたんです。
また脈絡もない感じで仕事をセレクトしたね。
昼の仕事はとにかく日当が良かった。夜の仕事では人とのつながりを作りたかったんですよ。ベンチャー企業の社長から学生まで、いろんな人が来る店だったんで。
なるほど。
ある夜、お客として来ていたITベンチャー企業の社長から「ウチに来ないか」と誘われまして。すぐにOKしたんです。「よーし、この会社をごっついデカくして、自分をクビにした事務所やレコード会社、音楽業界まるごと買収してやる!」って。
え?
事務所から解雇されたのは当然、自分が100%悪いんですけど、まだ納得できてなくて、「いきなりクビにしやがって!」と逆恨みしてるような状態でした。
君。。。
とにかく勘違いしてたんですよね。で、そのベンチャー企業に入ったわけですが、ざっくりと仕事の内容を説明すると、システムエンジニアたちを、様々な企業に「こんな技術を持った優秀なエンジニアがいますよ」と提案し、採用してもらって派遣するのが僕の仕事でした。
営業ですね。
で、やってみると、これが簡単なんですよ。
言うね。
簡単なんですよ、仕事がどんどん決まる。営業の仕事は、提案する商品よりも先に、自分に魅力を感じてもらうことが重要です。これは実は、僕が駅前で歌うことで、徹底的に鍛えてきたものだったんですよ。
なるほどね。
成績はダントツのトップでした。その頃に第一子が生まれたんですけど、仕事が面白くなってしまって、家庭は顧みず、仕事ばかりしてましたね。
なんというか、最低だね。
短期間に営業部長、取締役と出世して、給料も良くなり、夜は取引先の会社の人たちと遊び、酒を浴びるように飲んで、家に帰って眠って、タクシーで仕事に行って……そんな生活がしばらく続きました。
環境にものすごく流されやすい人なんだな、君。
そうこうしているうちに二人目の子どもが生まれまして。さすがに二人になると、子育てに協力しないと家庭が回らない。
でしょうね。
仕方なく家にいるようにしたんですよ。当然、子どもたちと一緒に過ごす時間が増えてきますよね。子どもたちを取り巻く様々なことに目が行くようになるわけですよ。特に、食についてはものすごく気になりました。
ようやく「食」というキーワードが出てきましたね。続きます。