徳本修一が野菜をつくるまでの話(1)
今日から、TREE&NORF代表の徳本修一のインタビュー記事を「なぜ農業を始めたのか?」というテーマのもと、10回に渡って連載していきます。
TREE&NORF代表 徳本修一
「え? そんなの読みたくないよ」という声が聞こえてきそうですが、一人の(かつての)青年が農業に本気で取り組むまでの、その道のりはちょっと長いですがなかなか面白いですし、最近「地方創生」などに絡めて語られることの多い「若者の県外流出」や「地元での就職」といった観点でも、いろいろ興味深い話になりそうです。
- 消防士になって、消防士を辞めるまで
- 東京での暮らし(前編・芸能界に入るまで)
- 東京での暮らし(中編・芸能界に入ってから)
- 東京での暮らし(後編・結婚して子どもができた)
- 東京から鳥取に引っ越し、わったい菜を創業
- わったい菜で奮闘した5年間(前編)
- わったい菜で奮闘した5年間(中編)
- わったい菜で奮闘した5年間(後編)
- TREE&NORFを創業、本格的に農業の道へ
- BLOFに出会って。そして徳本、大いに語る
話の聞き手は、現在TREE&NORFの同僚であり、実は高校、卒業後の職場、上京後から鳥取帰郷まで、何かと接点のある、ワタクシ和多瀬でお送りいたします。
なぜ消防士になったのか
ホントに誰が読んでくれるのか分からないですけど。
ええ、ホントに。まあ、始めましょうか。
今回は「消防士になって、消防士を辞めるまで」というテーマなので、高校3年生くらいに遡っての話になりますかね? まず、なんで消防士になろうと思ったんですか?
正直に話していいですかね?
もちろん、お願いします。
消防士、実はなりたくてなったわけじゃないんですよ。一番の大きな理由は「祖父に勧められた」ですかね。
後ろ向きな感じですね。まあ僕も「バックドラフトという映画を観て」というのが理由ですけどね。
注:和多瀬もかつて消防士でした。
高校を卒業したら県外に出たいと思っていたんですよ。しかし祖父の強力なススメを無下に断ることもできず。とりあえず試験を受けたんですよ。受けて「やっぱりダメで落ちちゃったから県外行くね」って言うためにです。
完全に後ろ向きですね。
はい。なので筆記試験もめちゃくちゃいい加減に回答したんです。体力試験も僕が一番成績が悪かった自信がありますよ。懸垂の成績は0回だったし、持久走は誰が見てもやる気がないって分かるくらいグダグダで。が、通ってしまった。
まあ、通ってしまった大人な理由は、ここでは割愛しましょうかね。
ええ。受かってしまったので消防士にならざるをえなくなりました。純粋に消防士になりたくて、それこそ何年も試験を受けたり、勉強したりしていた人には申し訳ないんですが。
消防学校から逃亡
実際に消防士になってみて、どうでしたか。
辛かったですね。最初にキたのは、体力的な辛さでした。学生時代に運動の「う」の字もしていなかったので、消防士として採用されたら通う消防学校の訓練に、全くついていけなかったんですよ。
慣れればそれほどでもないけど、何の準備もせずにあの訓練を受けると、身体中が筋肉痛になりますよね。
体力が無さすぎて訓練で疲れ果て、夕食の時、茶碗や箸が持てないんです。同期たちはふつうに食べてるのに。めちゃくちゃ情けなかったですよ。そんなこんながあって、入学してから一か月後、僕、消防学校から逃亡したんです。
伝説の。
後にも先にも、あそこから逃亡したのは僕だけだと思います。とにかく、それほどあそこでの訓練というか暮らし(*)が嫌でたまらなかった。で、週末、帰宅した時に居間にメモを置いて家出したんですよ。
メモには何て書いたんですか?
「家を出ます。自分を試すチャンスをください」
(ぷぷぷ)
本当はそのまま大阪に出る予定だったんですが、事情があって出ることができず、知人の家に逃げ込んでいたんですけど、そこに何と、両親が来たんですよ。「帰ってこい」と。
迎えに行った親御さんも、心底情けなかったろうね。
でしょうね。僕はもう二度と戻らないつもりで、要は、消防を辞めるつもりで逃げて来てるわけなんですけど、最終的には説得されて、消防学校に戻りました。
親御さんのなんて言葉が効いたのかな。
親というより、消防学校の教官ですね。僕の両親に電話を何度もかけてきてくれていたみたいなんですが、そこで「彼も悩んだうえでの行動だと思う。だから彼が見つかっても責めないでほしい」と言ってくれたそうで。なんか感動したんですよ。
ナルホド。
で、消防学校に戻って、教官と話をしたんですね。そこで彼は「まずは半年間(*)頑張ってみてはどうか。そこでやっぱり自分には合わないと思えば辞めればいいし、消防の仕事が好きになったのならそのまま働き続けたらいい。ただ言えることは、この半年間の訓練に耐えられないようでは、県外に出てもモノにはならないと思う」と。
もっともな意見ですね。自分のやりたいことに向かってるようで、実際はただ現実から逃げていただけだと。
で、戻ることにしたんです。消防学校に戻ると、同期たちが何事もなかったかのように受け入れてくれたのが、すごく記憶に残ってますね。きっと僕の知らないところでいろんな話をし、そういう体制、空気感をつくってくれていたんだと思います。消防学校の職員や教官にも多大な迷惑をかけたと思いますが、当時はその10%も理解できていなかったかも知れません。
同期会で、必ず話題にあがりそうな話ですね。
消防の現場で見たもの
まあとにかく、それからは訓練も座学も、同期たちとの日常生活も楽しくなりました。で、半年後、無事に卒業しました。
現場に配属になったわけですね。
はい。それまでは同い年か、少し年上の同期たちと切磋琢磨するという学生生活から、ガラリと。消防というのは命令系統、上下関係が明確で、それはだいたい年功序列で決まっていました。一つの(消防)署には署長というトップから僕のようなペーペーの消防士によって、火災や救助、救急などの現場に対応できる体制が組織されていますので、様々な年代の職員がいるわけです。
定年前の50代後半の署長から、50代前半、40代、30代、20代とまんべんなく。
そうです。18歳の僕がそこで何を見たかというと、将来の自分だったんですよ。20代の自分、30代の自分……。当時の自分には、それがとても恐ろしいものに映ったんですよ。「お前の人生、こうなるよ」って言われてるようで。
分かります。
同僚たちの人生が良い悪いではないんですが、自分の人生があらかた決まってしまったような気がしたんですよね。そこで自問自答するわけですよ、「俺の人生、本当にこれでいいのか?」って。「やるべきことはないのか?」と。
多分、人生に大きな変化が生じたり、何かを選択したあとに多くの人が抱く疑問ですよね。
とはいえ、消防の仕事は好きだったので頑張りました。「消防救助技術大会」というのが毎年あって、それは特に頑張りましたね。優勝もしましたし。それから、もちろん火災や救助、救急の現場にも出ました。配属になった署は比較的、出場の多いところでしたので、勤務の間(朝8時半から翌朝8時半まで)に必ず何かしらの現場に出ました。
消防学校から現場に配属になると、現場に出たくてウズウズしますね。住民の不幸を待つわけだから少し複雑な気分ですけどね。
現場で知った「ある事実」
消防士として働いた5年の間にいろいろな現場を体験しましたが、病気や事故で命を落としてしまう場面に立ち会ったりすることも多々ありました。そこではっきりと感じたのは、人は死ぬという事実です。今この瞬間にも、亡くなっている人は世界中にたくさんいて、僕たちは知識や情報としてそれを知ってはいますが、どこか自分のこととは考えていないところがあります。
健常者が自分の生や死を意識する機会は、日常生活の中に多くはないでしょうね。
ですよね。しかし、ついさっきまでふつうに暮らしていたはずの人が、ほんの一瞬の間に起きた交通事故などで命を落としてしまう、といったことを消防の現場では何度も目の当たりにしました。最初はそこで自分の責任を果たすことに精一杯だったのですが、少しずつ仕事に慣れてくると、そこで体験したこと対して自分なりに何かしら考え始めてくるわけです。その結果、得た結論は「僕もいつか死ぬ」でした。
ナルホド。
そしてそれは、いつなのか分からない。明日かも知れないし、50年後かも知れない。でもいつか死ぬのは確実だと。いつか死ぬなら、本当に好きなことをやって、悔いのない人生を送らなきゃいけないと。
その悔いのない人生は、消防署で見た10年後、20年後の自分ではなかったと。
もちろん、その人生を悔いなく生きることもできたかも知れません。結局、自分次第だということは今なら分かるので。ただ、その時は、そうですね、そう思いました。消防士ではない、別の人生を送るべきだと。
歌手、徳本修一の人生が俺を待っている!と。
とにかく、まずは鳥取で飛び出して東京に行こうと思いました。「歌で天下とったる!」と思いつつ、じゃあまずここから始めよう、とかではなくて、まずは東京に行こうと。1999年10月のことでした。
続きます。
- 消防士になって、消防士を辞めるまで
- 東京での暮らし(前編・芸能界に入るまで)
- 東京での暮らし(中編・芸能界に入ってから)
- 東京での暮らし(後編・結婚して子どもができた)
- 東京から鳥取に引っ越し、わったい菜を創業
- わったい菜で奮闘した5年間(前編)
- わったい菜で奮闘した5年間(中編)
- わったい菜で奮闘した5年間(後編)
- TREE&NORFを創業、本格的に農業の道へ
- BLOFに出会って。そして徳本、大いに語る
* 鳥取県消防学校には宿泊施設があり、新採用者は消防士になるための訓練を、そこで寝泊まりしながら受けます。
* 1994年、徳本修一の在籍当時、現場に配属になる前に受ける初任教育の期間は半年間でした。