徳本修一が野菜をつくるまでの話(3)
TREE&NORF代表の徳本修一のインタビュー記事を「なぜ農業を始めたのか?」というテーマのもと、10回に渡って連載するこの企画。本日は第三回です。
TREE&NORF代表 徳本修一
- 消防士になって、消防士を辞めるまで
- 東京での暮らし(前編・芸能界に入るまで)
- 東京での暮らし(中編・芸能界に入ってから)
- 東京での暮らし(後編・結婚して子どもができた)
- 東京から鳥取に引っ越し、わったい菜を創業
- わったい菜で奮闘した5年間(前編)
- わったい菜で奮闘した5年間(中編)
- わったい菜で奮闘した5年間(後編)
- TREE&NORFを創業、本格的に農業の道へ
- BLOFに出会って。そして徳本、大いに語る
前回の続き、5時間遅れでやってきた「某有名文化人」がデヴィ夫人(以下、夫人)だった、というところからですね。これは僕も話を聞いた時は驚いたのを覚えてます。
夫人はあの頃、メディアでの露出が増えて、かなり忙しい毎日を送っていました。生活の拠点も、それに合わせてニューヨークから日本に移し、マネージャーも一人では足りなくなってきたので「一人増やそう」そんなタイミングでした。
ふだんあまりテレビを見ない僕ですら、なんか良く見かけるなって感じるくらいだったもんね。
一般的な場合、タレントのマネージャーはテレビ局などに営業かけて仕事を獲得するんですが、夫人の場合は何もしなくても仕事が向こうからドンドンやってきてました。当時の夫人は「来た仕事は何でも引き受ける」という姿勢だったので、スケジュールがいつもギッシリでした。
具体的にはどういう仕事をしていたのかな?
最初の数か月は雑用ですね。マネージャーの仕事以前に、夫人からの信頼を得る必要がありましたので、とにかく指示があったら何でもやる。そのうち少しずつ信頼してもらえるようになって、雑用の範囲が夫人の個人的な生活のサポートにまで広がりました。
犬の散歩とか。
そうですね。それから徐々にマネージャーとしての仕事も任されるようになってきて。ひっきりなしに入ってくる仕事のスケジュール管理はもちろんですが、テレビ番組の制作チームと夫人との調整もあったりして、雑用と合わせてめちゃくちゃ多忙でした。
制作と夫人の調整というのは?
夫人はハッキリした性格ですから、例えば演出の指示があったりしても、彼女が気に入らなければ「ワタクシ、やらないわよ」となる。無理強いしても絶対に通らないから、そこをうまく制作側の意向に近い所に誘導するのが僕の役目でした。
芸能人のマネージャーとか本当に大変そうな仕事だけど、逆に良いことはあったのかな?
一つは海外での経験ですね。当時、僕は海外に行ったことがほとんどなかったんですが、海外ロケに同行することがあって。ニューヨークやパリ、ジャカルタ、バリ島などにはよく行きました。
しかし、スケジュールはかなりタイトで、パリやニューヨークなど、片道15時間以上かかるような場合でも、ロケ先で1泊してとんぼ返り、なんてことはザラでした。でも、当時はまだ若くて体力もあったし、初めての国でいろんなものを吸収してやろうと考えているわけですから、寝不足だろうが長時間のフライトで体が疲れてようが、頭は結構冴えてる。五感をフルに使って情報を吸収してました。
何かエピソードありますか?
パリで、夫人が参加するパーティの撮影があったんですが、光り輝くシャンデリアの下で政財界の有力者や有名な俳優がタキシードやドレスを着て豪華な食事を楽しむ、そんな絵に描いたような煌びやかな社交界の光景でした。
それはふつうの海外旅行では一般人には絶対できない体験だね。
その後、インドネシアのジャカルタ(*)に移動して別の撮影をし、たまたま時間が空いたんで街を散策していたんです。そしたら物乞いの子どもたちが結構いて、何とも言えない哀しい目で僕を見つめてくるんですよ。周りを見ると、今日この日に満足な食事ができるかどうか分からない人たちがたくさんいて、彼らが僕をじっと見ているわけです。パリとジャカルタ。その2つの都市で見たことのギャップの大きさに、何とも言えない感情を抱きました。
世の中、不条理だなと。
生まれる場所が違うだけで、これだけの差がある。あまりに理不尽です。でもこの問題をすぐに解決する手立ては僕にはない。では何ができるか? 一生懸命、全力で生きるしかないんじゃないか? この時代に、平和な生活が送れる日本という国に生まれ、ぬるま湯に浸かって甘えてるだけなんじゃないか。僕は本当にこの命を全うしてるんだろうか? もしかしたら明日にも消えてしまうかも知れない子どもたちの命を前にして、痛烈にそう感じたんですよ。
その体験は記憶に残りそうだなあ。
帰国して2か月くらいして、マネージャーを辞めました。芸能界にコネをつくるとか何とか、そんなの所詮、逃げでしかないって思ったんですよね。歌手になりたいなら歌で勝負しなくてどーするんだ!って。
正しい夢へのアプローチですな。
退職後も夫人は何かと気にかけてくれたり、「戻ってこないか」なんて声をかけてくれたりしたんです。辞めてからケータイの番号を変えていたこともあって、一度は鳥取の実家にまで電話がかかってきたこともありました。父親がめっちゃ驚いてましたけど(笑)、でも多忙過ぎて音楽活動できないのでそこはキッパリ。すぐに近所の文房具屋のアルバイトを始めました。
芸能界から近所の文房具屋に転身、、、またえらくギャップがあるね。
その後、ハードロック、テクノ、ポップスなど、音楽性の違うバンドに所属を変えながら、チャンスをうかがっていました。
当時、吉祥寺や六本木でのライブを聴きに行ってたけど、「頑張ってるなあ」って感じしたもんね。
時々、事務所から声がかかったりしたんですけど、折り合いがつかなかったり。2003年にポップスのグループを結成して、それから幾つかの事務所から引き合いがあるようになって。
ほう。
その中のある事務所が、当時の僕たちのことを徹底的にコキ下ろしたんです。超ダメ出しをもらいまして。でも内容は本当に的確だった。それで「ここと一緒にやりたい」って思ったんですよね。こことなら俺たち伸びる!と。
なるほど。
事務所が考えた僕たちのパフォーマンスの改善策の一つが、郊外の駅前で歌う、というものでした。お前たちの歌で駅前の空気を変えてみせろ、100人、200人を歌で集めてこい、ライブのチケットを売ってこいと。だけど、忙しく行き交っている、僕たちのことを全く知らない人を立ち止まらせて歌を聴いてもらうのは、簡単なことじゃありません。
そうだよね。僕もそういう人を見かけても、大抵は素通りだったな。
僕たちのターゲットは女子高生でした。彼女たちの財布にはそんなにたくさんのお金が入ってるわけじゃありません。仮に彼女たちの毎月のお小遣いが5000円だとして、そこから駅前で歌ってる知らないヤツのライブチケットとして2000円を引き出すというのは、、、
かなり難しいことだよね。
そうなんです。まず立ち止まってもらうことが難しくて、そのゴールも非常に難しい。単に良いうたを上手に歌ってるだけではダメです。
個性というか、何か武器が必要になるんだろうね。
最初はその辺りも分かってなかったし、とても苦戦しました。いろいろな駅で歌いましたが、ほとんど立ち止まってくれない。行き交う人たちにとって僕たちは存在していないも同然でした。
世知辛いね。
続けていく中で、駅前や路上で人に立ち止まってもらう、振り向いてもらうためには「バカになり切る」ことが必要だと気付きました。とにかく中途半端じゃダメ、照れて何かやっていてもダメ、とにかく振り切れることが大事だなと。
何にでも通じることかもね。
それがきっちりできるようになってからは、人が集まり始めたんですよね。千葉県の柏駅前で女子高生を100人以上集めて、新聞に載ったこともあります。
それで事務所も僕たちに可能性を感じてくれるようになって、営業かけてくれるようになりました。超ローカル局ですがラジオ番組を持たせてもらったりとか。
ああ、やってたねぇ、FMえどがわ。聞いてなかったけど。
それから、ちゃんとしたプロデューサーを付けてくれたんですよ。それが今の奥さんなんですけどね。
続きます。
- 消防士になって、消防士を辞めるまで
- 東京での暮らし(前編・芸能界に入るまで)
- 東京での暮らし(中編・芸能界に入ってから)
- 東京での暮らし(後編・結婚して子どもができた)
- 東京から鳥取に引っ越し、わったい菜を創業
- わったい菜で奮闘した5年間(前編)
- わったい菜で奮闘した5年間(中編)
- わったい菜で奮闘した5年間(後編)
- TREE&NORFを創業、本格的に農業の道へ
- BLOFに出会って。そして徳本、大いに語る
* デヴィ夫人は、インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人。国籍もインドネシア共和国。
私も若かりし時に馬鹿になると言って仕事を辞めたころを思い出しました。
私は親の残した田畑、果樹園を唯荒地にしないようにしている、収益マイナスの組合員ですが、草刈りなど管理作業しておりますと、今は亡き両親兄妹を
偲ばれ今ある自分の存在に感謝と、かけがえのない思い出にしたれるひと時 心やすらぐ時間を一瞬感じさせる大切な時間であります。
今のご時世このような方は多くいらっしゃると思います。 私はこれからも管理作業を続ける原動力にさせていただきました。
ありがとうございます。