高須賀穣 – 海を渡った農業者たち
徳本です。
2020年も2月に入りました。
今年は新しい田んぼが約90枚増えるので、地主、地域、行政とのやり取りが少なくない回数、あります。農地は全て借りて耕作していますが、農地の貸し借りのことを「利用権設定」といい、これは農業委員会の認可が必要となります。
トゥリーアンドノーフは農地(圃場枚数)が多いので、情報を一元管理をするために、地主と農業者の橋渡しをする農地中間管理機構(公益財団法人鳥取県農業農村担い手育成機構)を介して、地主さんから農地を借り受けています。
とは言っても、僕が一軒一軒訪問して、地主さん(高齢者が大半)に書類の中身を説明して捺印もらうのですが、流れで世間話にもよくなります。
多くの地主さんは、かつて夫婦で兼業農業を営んでおられたので、その頃の苦労話しや思い出話し、そしてこれから誰(地主さんからみて息子世代)も農業をしたがらないので田畑が荒れるので不安がある、などなど。
僕の考えでは、こういう話はこれからどんどん増え、加速していきます。
そしてこの状況は、鳥取が、少子高齢化や過疎化を根本から跳ね返し、大逆転するチャンスだと考えています。
その話はまた後日。
高須賀穣
海を渡った農業者シリーズ、今日は第2弾です。
前回、全米でライスキングと呼ばれている国府田敬三郎の紹介をしましたが、実はオーストラリアにも凄い日本人レジェンド農家がいたんです。
その名は、高須賀穣(たかすか じょう)。明治時代後期にオーストラリアに入植した愛媛県松山市の篤農家です。
画像出典: SanRice
この人の半生も凄いものがあります。
地元松山の名士の一人息子として生まれた高須賀穣は、慶応大学進学後にアメリカへ留学し、米国大学で文学士の学位取得。帰国後の1898年には衆議院選挙に立候補・初当選します。
しかし政界への希望を失ったのか、より広い世界での挑戦を求め、1905年(当時40歳)に妻と幼い子ども2人を連れて、異国の地オーストラリアへ。そこからジャポニカ米の大規模生産を試みます。
しかし、苦難の連続。年によっては水不足で全滅、年が変われば洪水ですべての圃場が水没。そこを小舟で渡って子どもを学校に送り届けたり、米栽培の生命線となる築堤工事を牛馬を使って昼夜重労働をこなしたり……。オーストラリアでのジャポニカ米栽培技術の確立に10年以上の年月を費やし、不屈のチャレンジ精神で成功へと導いていきます。
現在オーストラリアで作付けされている米の80%がジャポニカ米で、世界一の単収を誇ります。その礎は高須賀穣により作られました。
彼の偉業はオーストラリアでは広く認められています。オーストラリアの米販売最大手のサンライス社のルーツにも高須賀穣が大きく貢献しており、同社ホームページにもその功績が紹介されています。
大規模なオーストラリアでの水稲栽培
何が彼をそこまで駆り立てたのか分かりません。しかし、亡くなる75歳まで全身全霊で生き抜いた農業家としての生き様に、僕自身熱いものを感じずにはいられません。
一般的にはあまり知られていませんが、農業大国アメリカとオーストラリアの大規模水稲栽培の礎を作ったのは、明治時代に海を渡った日本人たちだったのです。
昨年末、オーストラリアの森林火災のニュースが盛んに報道されていましたが、近年オーストラリアは大干ばつに見舞われることが多く、水田地帯でも出水制限が掛かるケースが多くなってきています。
世界的な気候変動の中で、持続性ある農業のあり方を見つめ直す機会が増えてきています。
先人たちのスピリッツを受け継ぎながら、今を生きる我々農業者がどう考え、行動していくべきなのか……。
また来週。