清水直樹が野菜をつくるまでの話(1)
清水です。
4月も半ばを迎え、アドレナリン全快で農作業に従事しています。
今年は、去年の経験をふまえ、よりよい小松菜を皆様にお届けしたいと思いますので、ご期待ください。
さて、私、清水は、今年の7月でトゥリーアンドノーフに勤務して2年になります。なぜ私がトゥリーアンドノーフに入社したのか、いやそもそもなぜ農業をしているのか、私の経歴を連載でご紹介したいと思いますので、お付き合いくださいませ。しかし、興味を持って読んでくださる方がいらっしゃるでしょうか……(笑)。
農に近い生活を送っていた幼少期
私は会社のある気高町の隣町、鳥取市青谷町の実家で生まれ育ちました。
実家は兼業農家、中山間地にある田んぼで米を作っていています。家の横には小さな畑があり、ふだんづかいの野菜を作っていました。
小学校までの通学路は田園風景が広がり、授業では蕎麦の種をまいて育て、収穫し、蕎麦をうって食べるという一連の流れを体験するなど、私にとって農業はとても身近なものでした(その時の蕎麦がお世辞にも美味しいとは言えず、それが理由かどうか定かではありませんが、蕎麦を食べるとブツブツがでるという症状に10年間悩まされました)。
実家のある青谷町の田んぼのある風景
小学生のころは農作業の手伝いを積極的に手伝っていたのですが、中学高校と部活中心の生活になり、農業とは少し距離ができていました。
そして多くの若者がそうであるように、私も「こんな何もない田舎はいやだ!」と鳥取が嫌いになっていて、高校を卒業したら県外に絶対出る!と考えていました。
高校を卒業してインテリアの道へ
高校を卒業すると、おばあちゃん子だった私は、足の悪い祖母のために実家をリフォームしたいと考え、大阪にあるインテリア関係の専門学校に通いはじめました。
そんな夢をみながら勉学に励んでいたんですが、2年目の春、家族から祖母が他界したとの報せがありました。それは僕にとってすごく悲しいできごとでした。僕は途方に暮れ、2か月くらい心ここにあらずな状態で、気づけば、インテリアへの情熱が冷めていきました。
結局、専門学校を卒業後は、学生の時にアルバイトしていた花屋に就職しました。
インテリア系の雑誌を見ると、必ず花や観葉植物が部屋を彩っていて、そちらのほうに魅力を感じていたんですね。
そして、チューリップとひまわりぐらいしか知らなかった私が花の世界へどっぷりつかっていくわけです。
(続く)